吾妻鏡の北条本に転記上の誤りがあることが分かりました

それは、建久4年2月10日の条、毛呂氏賜る武蔵国泉勝田についての記述です。

吾妻鏡は諸本があります。最も普及されているのが北条本です。北条本とは小田原の北条氏が所蔵していた本であるために、こう呼ばれているそうです。新訂増補国史大系も北条本が基礎となっているそうです。その北条本の中に転記する際に発生した誤記があることが分かりました。

吾妻鏡の中で最も正確だと評価されているのが吉川本といわれています。その吉川本と北条本の間に不一致を発見しました。それが、冒頭の、毛呂氏賜る武蔵国泉勝田についてであります。

吉川本は建久4年2月10日の条に:

毛ロ太郎季綱蒙勧賞、武蔵国泉沙田 と書いてあります。

沙田は、これも吉川本の筆者の書き間違いで正しくは弥田だそうです。

吉川本を見ると、沙田の横にと書いてあります。これは、異本と比較し、記述に違いがあることに気付いた時には、その文字の右側に注意書きとして異本の記述を表示するという学者さん達のルールに従ったということです。

この情報を吉川本で確認すると、坂戸市の法務局へ行き毛呂山町の地籍簿を調べました。すると、毛呂山町内に泉と伊与田(旧名は弥田)が現存することが分かりました。

そのことで、吾妻鏡の吉川本に記載されている通り、毛呂氏が貰った土地とは毛呂山町内の泉と弥田だと考えるのが自然だと確信しました。

北条本に武蔵国泉勝田と書いてありますが、その場所を比企郡と特定している訳ではありません。それなのに、どうして比企郡の地と比定するようになったのかわかりません。

最近、江戸末期の武蔵国の地図を見る機会がありました。その地図上に「泉と勝田」村の場所を示す文字が大きく記載されていることに気が付きました。一方、毛呂山地方を見ると、各村の面積が小さいためか密集して村名が書かれており、毛呂本郷の名前さえも明確に読み取ることができません。そのような状態ですから、泉と弥田の名を記載する隙間はなかったようです。

このような泉と勝田が隣接している地図を見た、地元の地理に明るくない江戸の学者さんは、この場所こそ毛呂氏が賜った場所だと誤って解釈してしまったのではないでしょうか。

武蔵の国地図はこちら

滑川町の和泉には毛呂氏の伝承は何一つ残ってないのですから、そう推測するより外ないのです。

中興武家諸系図に毛呂氏の本国武蔵比企郡と書いてあるのを見ましたが、この中興武家諸系図自体が信憑性に欠ける書物であるような印象を得ました。宮内庁の図書寮文庫で中興武家諸系図を閲覧しました。その折に諸氏の系図も見ましたが、信じがたい情報が多々載せてあることを見てきました。この作者が誰なのかは分かりません。江戸末期に纏めた書物だということしか分かりませんが、このように理解しがたい情報を残されると後の時代の者が迷惑すると思いました。

最近、泉福寺の大型板碑に清慎公の名前が刻まれているという説を唱える方々がいらっしゃいます。毛呂山町で発行した新毛呂山町史では滑川町の泉福寺を毛呂氏ゆかりの寺として紹介しています。

清慎公とは藤原実頼の諡号(しごう)です。毛呂氏の系図といわれるものは幾つかあるようです。その中の最も高貴な系図に藤原実頼の名があるのだそうです。 藤原実頼の父の忠平以来、江戸時代まで摂関職を継いだ家ですので、藤原氏のトップ的な名門です。

注: 藤原忠平は、平将門が都で仕えた人

  最近の毛呂山町の歴史研究では、

①    清慎公の名が滑川町泉福寺の板碑に刻まれていること、

②    吾妻鏡北条本に毛呂氏が貰った土地は比企郡の泉勝田であると記されていると解釈できる     こと。

この2点が泉福寺は毛呂氏ゆかりの寺と判断した理由のようです。

 

泉福寺の開基者は当齊藤家の先祖であることは間違いないことと思っています。当家の先祖と伝わっている比企氏は藤原氏であると聞いていますが、清慎公ほどの名門であったかどうかは聞いていません。

その板碑は美しい青色した塔婆ですが、崩れやすい材質のため剥離がひどく、肉眼では文字が書いてあることも分からないほどです。それでも拓本にすると困難ながらも読めるようです。

さらに、その文字が行書体だそうですから、正確に読むことは難しいようです。

        注: 清慎公と刻まれているという意見は、

           研究者全員が一致した見解ではありません。

泉福寺の板碑

泉福寺の板碑

私達が上梓した本に「比企氏、頼朝より和泉の地36町歩を賜る」、と書いて良かったと思っています。当家にしっかりした伝承が残っていたことは幸いでした。その伝承がなかったら、和泉村の歴史は真実と異なるものになってしまったかもしれません。

和泉村は長い間、変化らしい変化もなく戦乱に巻き込まれることもなく民人が静かに暮らしてきた集落なのです。辺りの風景は今も昔も、そう変わらないと思います。特に上和泉という三門館や泉福寺がある辺りは、昔と変わらない静かな佇まいを見せています。

毛呂氏が賜ったのは毛呂山町内の泉弥田であることが明らかになりました。この毛呂山町内に泉弥田があることを研究者の方々にお伝えしていかなければならないと思っています。

なお、この貴重な情報を提供して下さったのは茂木和平さんという方です。茂木さんは「埼玉苗字辞典」という大作を発表された方です。図書館で閲覧できますが、インターネットでも公開されていますので、埼玉苗字辞典とキーインして、ご興味のある苗字を探ってみてください。