三門館

三門館(みかどやかた)

三門館は埼玉県比企郡滑川町和泉三門にあります。和泉は熊谷市小江川及び嵐山町吉田や勝 田と境界を接しています。

比企遠宗と妻の比企尼が築いた館を三門館と呼ぶようになったのは、その館が三門という小字にあるからです。

三門、御門、神門、帝、どれもミカドと読みます。また、遠の朝廷(とおのみかど)もあります。和泉の三門という地名は、遠宗の館の御門が変じて三門という地名ができたのだと考えていました。しかしミカドという地名はもっと深い意味があるようだというご指摘をいただきました。これからの研究で詳しいことが解明できる日を楽しみにしています。

館の四方は空堀、水堀、沼、土塀などに囲まれていました。私が子供だった頃には、地元ではオンダシやケイドと言った言葉が使われていました。オンダシとは御出入口、ケイドとは垣内を意味する平安時代の言葉が残っていたのだと思います。

裏山の構堀

比企遠宗がこの場所に館を建てた理由は、

1)   主君と仰ぐ源義朝から、その弟の義賢の勢力拡大を抑えるよう命じられたこと

義賢は為義の次男として生まれました。無官のまま東国で育った義朝とは違い、早くから官位につき、最近の研究では義賢こそ為義から嫡流とみなされていたのではないかと言われています。しかし不祥事件が続き無官となった義賢は東国へ下り来て、兄の義朝と対抗するようになってしまいました。当初、上野国多胡を本拠地としていた義賢は、やがて武蔵国の秩父重隆の婿養子となり比企郡大蔵に館を構え、その勢力拡大を目論むようになったのです。

義朝はそれに対抗するために比企遠宗に命じて和泉の地をまず抑えたのです。義朝は都へ戻りました。父義朝の地盤を受け継いだ長男の悪源太義平は義賢と秩父重隆が近隣国を抑える動きに出たことを見てとると大蔵館を襲撃し、義賢と重隆を討つことに成功しました。これが大蔵合戦です。

2)   和泉の地形は豪族の館を建てる場所としての条件を備えていたこと

遠宗が和泉に館を建てた別の理由として考えられることは、この和泉の地形の良さにあったのだと思います。比企郡は丘陵地帯です。その様な地形は谷が多く、谷津、谷戸、谷地などと呼ばれています。谷に土手を築き、そこに出来た溜め池に水をため農業用水として使用しました。三門館を築いたのは、そこが大量の水を必要とする稲作には理想的な地形であったからです。

食物のバリエーションが増えた現在は米を特別な物として有り難がる気持ちは薄らいだかもしれませんが、昔から米は豊かさの象徴でした。長い間、米は貨幣の代わりでもありました。

当家の言い伝えに頼朝から36町歩の田畑をいただいたという話がありますが、その多くは水田でしたので比企氏の経済力は豊かなものであったと想像しています。

比企郡内といえども、どこでも稲作を営むことができた訳ではありません。畠山重忠の領地であったという菅谷方面や畠山方面は現在の地形から推測して畑作が多かったようです。武蔵風土記稿、道場村(浦和、現在はさいたま市)の条に重忠が田畑を開いたとの記述があるそうですが、重忠は水田地を求めてさいたま市方面にまで領地を求めていたようです。