泉福寺

三門館とは田んぼを隔てた西側に泉福寺があります。

母から聞いた話ですが、武蔵国においては、その西方は天皇がお住まいの都の方向です。西は神聖であり、上座の向きと考えられていたとのことです。その言葉どおり、泉福寺は三門館の西方に建てられました。

当家の話になりますが、当家では江戸時代までに数軒の分家を出しています。どの分家も当家より西方に屋敷を構えた者はおりません。泉福寺が西方にあるのと同様に上座にある本家よりも西方に住むことは許されていなかったようです。

和泉の泉福寺

和泉の泉福寺

現在の泉福寺は新義真言宗智山派の寺院ですが、昔は天台宗でした

注意しなければならないのは徳川幕府が寺請制度を設けた時に改宗された寺院が多くあったことです。現在○○宗の寺だと言っても昔はそうでなかった寺が多いのですから、歴史を勉強するには、その辺りを注意しなければなりません。昔は何宗だったのかをしっかり調べなければ間違った解釈をしてしまうことがあるということです。

泉福寺の開山は建久元年二月三日

寺に伝わる泉福寺累代先師と題する住職の世代帳によると泉福寺の開山は建久元年とあります。この年は頼朝が伊豆へ配流以来40年振りに上洛し後白河法皇と対面した年です。鎌倉幕府は安定期にありました。この時代に泉福寺が開山されたということは和泉に住む頼朝の有力なご家人比企氏にとっても鎌倉に於いては成すべきことを全てやり遂げた充足感に満ちた時代であったのではないでしょうか。そして、ようやく念願だった泉福寺の開山の日を迎えることができたのだと想像します。

この頃から比企氏は三門館に住み続け、在地領主として領地の安定を図ることに務めた者と比企能員の様に鎌倉幕府に直接仕えた者とに分かれたようです。能員は比企夫婦の猶子(甥)で、しかも官僚として優秀な人物であったために、尼が特に推薦したのであろうと思います。

歴史家の間では、比企氏の家督を継いだのは比企能員と言われています。また、比企氏は鎌倉の比企ヶ谷に土地を賜り、そこに住んでいたという考え方をされる方が多いようです。

しかし、我家のように比企氏の子孫だという伝承を代々受け継いできた者が考えるには、比企氏がいかに頼朝に重用されようとも、己の領地を投げ打って一族が鎌倉へ移住したとは考えられません。

平安時代末期の武士は戦国時代の武士とは違います。当時の武士、いわゆる豪族は、新しい土地を開拓して私有地を増やし、富を築くことが彼らの生き方であったのです。農地を耕し収穫物を得て領民共々豊かさを享受する、そんな安定した暮らし方を求めていました。武蔵国には広大な原野が広がっていたといいますが、平安時代末期になれば、それらの多くの土地は所有者が定まっていたことでしょう。私有地を広げることは、そう容易いことではなかったと思います。

そのようは時代です。比企氏といえども、せっかく手にいれた所有地を手放すことは考えられません。

そのような考え方に基づき、比企氏の跡継ぎは地元の和泉の館を継いだ者です。比企尼に与えられた鎌倉の比企ヶ谷は、尼の別荘として与えられたものです。鎌倉では、朝宗も能員も大倉館の東門のそばと小町大路に2軒ずつ屋敷を持っていたことが吾妻鏡で確認できます。東門のそばの屋敷は出仕の際に身支度を整えたりする場所であり、小町大路の屋敷が本宅でした。

比企夫婦には朝宗や藤次という男子がいました。また朝宗には息子が生まれたことが吾妻鏡に記されています。和泉の領地を立派に守っていくことが出来る者がいたのです。能員の活躍は吾妻鏡に詳述されていますが、それを可能にしたのは地元をしっかりと守る者がいたからのはずです。

話がそれました。泉福寺についての我家の伝承を記します。

泉福寺と遠宗は川田谷から来た

和泉の泉福寺には屋根の上に菊のご紋が掲げられています。菊のご紋は天皇の命令で建立された勅願院である証しです。和泉の泉福寺は、いつの時代の天皇の勅願院だったのでしょうか。その辺を探って行きたいと思います。

泉福寺ー屋根の上に菊のご紋があります

泉福寺ー屋根の上に菊のご紋があります

川田谷とは桶川市川田谷。新編武蔵風土記稿には足立郡川田谷村と記されています。川田谷は河田谷とも書かれたようです。そこには東叡山本山の称号を持つ泉福寺が今でもあります。川田谷の泉福寺と和泉の泉福寺は深い繋がりがあるように思います。

ここに、私の著書「比企遠宗の館跡」から、泉福寺についての記述を一部抜粋してご紹介します。

  1. 川田谷泉福寺の名称は東叡山勅願院円頓房泉福寺
  2. 東叡山とは天台宗の本山の延暦寺がある比叡山に対し、東日本の天台宗の中心という意味である。
  3. 勅願院とは天皇の勅願により建立され、ご親書を賜ったとする院名である。
  4. 寺の歴史については、天長六年(829)淳和(じゅんな)天皇の勅願によって、慈覚大師円仁が開山したと伝えている。第三代目の天台宗の座主となった高僧である。
  5. 草創当時は、広大な寺域に堂塔伽藍が建ち並び、多くの塔頭を擁し盛況の中にあった。
  6. 平安末期の源平の乱によって戦火を被り、すべてを焼失したという。

これは、東叡山泉福寺「ご案内のしおり」から書き写した内容です。

一時は盛況の極みにあったという川田谷の泉福寺も戦火を被り壊滅の悲運に見舞われたといいます。寺の建物のほとんどを焼けつくし、経典等も灰と化したそうです。

その寺から阿弥陀様を和泉に移したのが遠宗なのです。

慈覚大師は川田谷で三体の仏像を造られました。阿弥陀如来像、地蔵菩薩像、そして薬師如来像です。阿弥陀如来像は和泉の泉福寺にあり、国指定の重要文化財と認定されています。地蔵菩薩像は、川田谷の泉福寺に今でも祭られているようです。薬師如来像については、安置先は不明です。

和泉の泉福寺の屋根に菊のご紋が掲げられていることを書きました。これも川田谷の焦土と化した寺跡から、和泉の泉福寺に移築したのではないかと思います。現在の和泉の泉福寺は小ぶりな建物ですが、昔は堂塔が建ち並び繁栄していたと言われています。三重塔もあったそうです。いまでも三重塔の基礎石らしきものが境内に置かれています。

川田谷の泉福寺と和泉の泉福寺の関係を述べてきましたが、どちらの寺が親で、どちらが子なのか、その関係は分かりません。我家の伝承の通り、確かに深い繋がりがあるように思います。数年前に川田谷泉福寺のご住職から寺の歴史について伺う機会がありました。その内容は、和泉の泉福寺に残る寺伝とそっくり同じだったのです。昔は両寺が良い関係で繋がっていたのではないかと思います。

なお、川田谷の泉福寺は文歴元年(1234)に信尊上人により中興されました。

                                               注:寛元年中(1243)ともいわれている

上野の寛永寺の山号 東叡山 は泉福寺の山号であった

ここまで泉福寺について述べてきましたが、東叡山勅願院円頓房泉福寺の称号をどこかで聞いたことがあると思われないでしょうか。三代将軍徳川家光が上野の山に建てた寛永寺の称号が東叡山寛永寺円頓院です。

徳川家康、秀忠、家光と徳川家三代の将軍の信任篤かった川越の喜多院の天海大僧正は、江戸城の鬼門にあたる上野のお山に寛永寺を建立しました。東の比叡山という意味で東叡山の山号が必要でした。そのために、泉福寺の山号を上野の寛永寺へ移したのです。

この話は、和泉の泉福寺を守ってきた当家にも伝わっています。また、和泉の泉福寺も、上野に東叡山を建立するためにご本尊を召し挙げられ、かつての天台宗の寺を廃寺にされたなどの話が伝わっています。

和泉の泉福寺の阿弥陀如来は源氏の君達と関わりがある

寺の境内に建てられた案内板には国の重要文化財の阿弥陀如来像について、「…源氏に関わりの深い女性と子供が、現世安穏と後生浄土を願い、あわせ父母の霊を祈ったものである」と書いてあります。そのような文面が阿弥陀如来像の胎内に書き込まれているのです。

比企遠宗と尼には源氏に嫁いだ孫娘達がいます。鎌倉の二代将軍頼家の妻は能員の娘若狭局、範頼の妻は丹後内侍の娘、義経の妻は比企家の次女の娘です。また、頼朝と丹後内侍の間には島津忠久が生まれたという話もあります。

比企氏と源氏は深い繋がりがあったのです。

源氏ゆかりの阿弥陀様との説明文

源氏ゆかりの阿弥陀様との説明文

 和泉の泉福寺境内の板碑

和泉一帯には沢山の板碑が残っています。個人の墓地に建てられたものもあります。その多くは鎌倉時代から室町時代にかけて先祖の追善供養のために建てられたようです。

泉福寺にある大型の板碑に刻まれている文言については研究者の間で、いろいろな解釈がされています。板碑の剥離がひどくて、私には文字が書いてあることさえも分かりませんが、拓本をとると困難ながらも読めるようです。

この板碑については、別の項で詳しく説明します。